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山村紅葉さん、母を語る。「死んでも約束は守る」「金儲けに楽はない」身をもって教えてくれた母でした

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ゆうゆう編集部

困難に直面したとき、人生に迷ったとき、あるいは何げない日常の中で、ふと思い出される母の背中、言葉、生き方……。女優の山村紅葉さんに、母、山村美紗さんの思い出を語っていただきました。「あなたが思うならそうしなさい」いつも意志を尊重してくれたそうです。

プロとはどうあるべきか、 母の姿勢を表した言葉

女優・山村紅葉さんの母であり、推理作家である山村美紗さんが65歳の若さで急逝してから26年が過ぎた。ともに過ごした日々がだんだん遠くなる一方、時が経つほど鮮やかによみがえってくる思い出や言葉もあると紅葉さんは振り返る。

「今いちばん思い出すのは『死んでも約束は守る』と言っていたことです。当時母は連載を8本抱えていてずっと執筆に追われていたのですが、締め切りに間に合わなかったことは、亡くなったとき以外1回もなかったんです。隣に住んでいらした作家仲間の西村京太郎先生と『どちらかが倒れたら必ずもう一人が連載を完結する』という約束をしていて、2作だけ未完で終わったので、それだけを西村先生が書いてくださいましたが、本当にそれは見事でした」

紅葉さんが母・美紗さんの著作を原作としたドラマで女優デビューしたのは、早稲田大学に通う学生のとき。一時引退していた時期もあったが、26歳のときに復帰、以来ずっと女優の道を歩きながら、この母の言葉がいつも胸にあったという。

「私も役者を続けてきて、なかには『赤い霊柩車』シリーズの良恵さんなど30年近く演じ続けている役もあります。それは、もしかしたら私ではなくてもいいのかもしれませんが、でも、やはり私のことを気に入って配役してくださっている方々や楽しみに見てくださる皆さんのお気持ちを思うと、感謝とともに『これは私でなければいけない。絶対に穴を開けるようなことがあってはいけない』とつくづく思うんです。ですから体調にはすごく気をつけていて、大事な仕事にかかるときは栄養のバランスを考えながら下手でも手作りの料理を作ったりします。これまで穴を開けたことは1回もないですね」

仕事をもつということはどういうことか、プロフェッショナルとしてどういう心構えでいるべきか、そのことを美紗さんは、折々に言葉で、自らの姿勢で教えてくれた。もうひとつ、紅葉さんが仕事をするうえで、常に心に留めている言葉がある。

「これも母が教えてくれたことですが、『金儲けに楽はない』です。母はすごく自由に好きに作品を書いていたみたいに思われることが多いんです。確かにアイデアもトリックもよく浮かぶのですが、やはり命を削って一枚一枚書いていく作業は、傍で見ていても生易しいものではありませんでした。結局書きすぎて、過労で亡くなったといっても過言ではない。でも、そこまでの厳しさがプロには求められるということを、いつも示してくれていたのだと思います」

楽しいことをするのだったらこちらがお金を払わないといけないわけで、お金をいただいて仕事をするということは、それなりに厳しいこと、つらいこと、いろいろある。その母の姿勢は紅葉さんが仕事をしていくうえで支えになった。

「2時間サスペンスのロケで、幾度となく極寒の断崖絶壁に行きましたが、本当に凍えそうに寒くてつらい。そんなときや、さまざまな仕事で難しい局面に立たされたときは『だからお金をいただけるのだ』と、母のこの言葉を思い出しては、自分を奮い立たせてきたものです」

京都の山が美しく色づく秋に生まれた長女に「紅葉」と名づけたのは美紗さんだ。紅葉は、暑さ寒さが厳しい年ほど一層鮮やかに美しく色づく。かわいいわが子には、そうした試練を糧にして、より美しく輝いてほしい、そんな意味も込められている。

山村美紗さん

【山村美紗さん プロフィール】
1931年京都生まれの推理作家。京都府立大学卒業後、中学校の国語教師に。結婚後、退職。長女・紅葉さんと二女を出産し、子育てをしながら74年『マラッカの海に消えた』で作家としてメジャーデビューを果たす。“ミステリー界の女王”“トリックの女王”と呼ばれ、“日本のアガサ・クリスティ”と讃えられた。96年執筆中に心不全で急逝するまで500近い作品を遺した。

一人の大人としてわが子を尊重した母

美紗さんが推理作家として売れっ子になっていったのは、紅葉さんが中学生になる頃。それまでは、まめに子どもの願いを形にしてくれる家庭的な母だったという。

「テレビで一緒に洋画を見ていて、お姫様が天蓋つきのベッドで寝ているのを見て『うわぁ、私もこんなので寝たーい』って言ったら、幼稚園から帰ってきたときに子ども部屋にあるんです。黒檀の座卓に布団が敷いてあって、天井からレースのカーテンがかかった『天蓋つきのベッド』ができている(笑)。『滑り台が欲しい』と言えば、母の鏡台に板を渡して作ってくれたり、洋服も手作りで、何でも願いをかなえてくれる母でした」

ところが推理作家として有名になるにつれ接し方も変わってくる。
「夜中に叩き起こされて『ねえ、ちょっとそこに正座して、紐で自分の脚を括って』。えーっ?と思いつつもそのとおりにすると『うーん、これで自殺か他殺かわかるわね』って部屋に帰っていくんです(笑)。娘がトリックの試験台なんですね」

高校生になると、一度もお弁当は作ってくれないし、行事にも来ない。しかしそれは、わが子を一人の大人として認めていることでもあった。

「進学校だったので、教育熱心な親御さんが多くて『どうしたらいいでしょう、この子』と先生方に相談する方もいる中、母はこう言うんです。『進路は本人に任せています。女の子だから自宅から通わなきゃいけないとか、国公立じゃなきゃいけないとか、そういうことは一切考えていないので、本人の好きにさせてください。人間としていけないことをしたのならば親が出向きますけれども、進路云々については本人と直接話してください』。その代わり『自分で責任をもちなさい』ということだったので、これという反抗期もなく、自分の好きな道に進みましたね」

いつも正面から向き合ってくれて、何でも話のできる母だった。大学卒業と同時に女優業を引退した紅葉さんは、国税調査官として大阪国税局に勤務するという全く畑違いの道を選択した。そのときも「公正な税の徴収を行って、教育や福祉にお金を回したい」という志望動機に納得して、「あなたがそう思うならそうしなさい」と尊重してくれた。その後、結婚と同時に退職し、再び方々から請われて女優業に復帰したときも、それはそれでまた応援してくれた。

1990年頃、母と。どんなときもきちんと向き合ってくれる、何でも話せる存在だった。

紅葉さんの代表作のひとつ、母・美紗さん原作「赤い霊柩車」シリーズの「良恵さん」。

「母は決してほめることはなかったんです。いつも『こんなに目を見開いて』とか『そんなに大きな口を開けることはない』とか批判ばかり。製造元のあなたが文句言わないでって思うんですけど(笑)。舞台出演にも反対で一度も観に来てくれなかったのに、実は陰で100枚もチケットを買って、編集者さんたちに『こっそり観に行って感想教えて』と言っていたと後で知りました。あれだけ作品を必死に書き続けたのも『紅葉は私のコネだけで女優をやっているから、原作となる作品をできるだけ多く残してやらないと』ということだったようで、それを聞いたときは胸にぐっときましたね」

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