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【どうする家康】磔になりながらも忠義を貫いた鳥居強右衛門(岡崎体育)。実は妻子がいて、子は関ケ原で活躍を!

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鷹橋 忍

強右衛門の死

天正3年(1575)2月、奥平信昌は家康から長篠城の城将を任され、入城します。
長篠城は武田氏とも抗争において、重要な城でした。
強右衛門も信昌に従って、長篠城に入ったと思われます。

同年5月、長篠城は、眞栄田郷敦さんが演じる武田勝頼が率いる軍勢に抱囲され、攻撃を受けました。

諸説あるので要点のみにとどめますが、使者として長篠城をあとにした強右衛門は、役目を果たして帰還した際に、武田軍に捕らえられてしまいます。

そして、「援軍は来ないと言え」という武田軍に屈せず、援軍が来ることを告げ、殺害されたと伝わります。

強右衛門の子が、安国寺恵瓊を捕らえた?

強右衛門の死後、その子はどうなったのでしょうか。

丸山彭著の『烈士鳥居強右衛門とその子孫』によれば、強右衛門の子・二代目強右衛門(信商)は、父の功績によって百石を与えられ、奥平信昌に仕えていましたが、やがて、亀姫と奥平信昌の子の家臣となります。

信昌と亀姫の次男・家治は、外祖父である家康の養子となり、新たな松平家を興しました。
二代目強右衛門は、「忠臣の子である」として、この家治の家臣となったのです。

ですが、家治は天正20年(1592)に、14歳の若さで亡くなってしまいます。
家治亡き後、二代目強右衛門は奥平家に戻り、関ケ原の戦いでは、外交僧として知られる西軍の安国寺恵瓊を捕らえるという武功をあげたと伝わります。

その後、二代目強右衛門は、信昌と亀姫の四男で、家康の養子となった松平忠明に仕えたといいます。

ドラマの強右衛門が、自分の子が信昌と亀姫の子に仕えることになると知ったなら、さぞかし喜んだのではないでしょうか。

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