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【どうする家康】秀吉は、出奔した石川数正(松重豊)を、それほど厚遇しなかったといわれる

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鷹橋 忍

秀吉は数正を厚遇しなかった?

秀吉は数正を、それほど厚遇しなかったといわれています。

家康や秀吉の子飼いの家臣への遠慮もあり、秀吉としてもあまり露骨に引き立てることができなかったこと(中島次太郎『松本城とその城下町』)。

家康が秀吉に従属したことにより、秀吉にとって数正はそれほど必要でなくなったこと(中村孝也『家康の臣僚 武将編』)などが、その理由に挙げられています。

それでも、『寛政重修家譜』によれば、天正18年(1590)7月に、秀吉の小田原攻めによって戦国大名としての北条氏が滅びたのち、数正は信濃国松本(長野県)の城主となり、八万石を領する豊臣大名となりました(信州松本藩の地誌『信府統記』など、十万石とする説もあり)。

ちなみに、北条氏の滅亡後、家康は北条氏の旧領である関東に転封となっていますが、それに際し、井伊直政が徳川家臣団最高の十二万石、山田裕貴さんが演じる本多忠勝と杉野遥亮さんが演じる榊原康政が、それぞれ十万石を与えられています。

松本城の礎を築く

松本に入った数正は、嫡男の石川康長とともに、城郭・城下の整備に取り組みます。

ドラマの「紀行巡礼」でも紹介された松本城の、近世城郭として基礎を築きましたが、数正は城の完成を見ることなく、文禄2年(1593)に死去してしまいます(文禄元年の死去説あり)。

数正の遺志は康長が引き継ぎ、天守を築き、城を整えたといわれます。

時を経て、松本城の天守群は国宝に指定され、訪れる人々を今も、魅了し続けています。

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