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【どうする家康】泣きながら退去を拒んだという、お市の方(北川景子)が詠んだ辞世の和歌とは?

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鷹橋 忍

お市の辞世の和歌 

秀吉軍は柴田軍を追撃し、4月23日には北庄城を攻めかかっています。

勝家はお市に、「信長の一族であるから、所縁も多い。秀吉も信長の子孫は、丁重に扱うに違いない」と言い、「お市が承知すれば、間違いなく秀吉のもとに送り届ける」と、北庄城を出るように促しました。

ところが、お市は、「私は多年の契りを結び、冥途黄泉までも共にと誓った。たとえ女性でも、意は男性に劣っていない。共に自害して、同じ蓮台に相対することを希う」と泣きながら、退去を拒んだといいます。

その後、二人は昔語りをし、ホトトギスの鳴き声が聞こえると、以下の辞世の和歌を詠んだと伝わります。

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう 郭公(ホトトギス)かな 小谷の御方(お市)

夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 勝家

(以上、『戦国史料叢書 第1』所収「柴田合戦記」)

翌4月24日の午前4時、秀吉は北庄城を総攻撃します。
北庄城は落城し、お市は勝家とともに自害しました。
天文19年(1550)生まれだとすると、享年34となります。

浅井三姉妹

お市の三人の娘たちは逃げ延び、秀吉の庇護を受けることとなりました。

長女・淀は秀吉の寵愛を受け、次女・初は京極高次の、三女の江は二代将軍・徳川秀忠の正室となる、数奇な運命を生きていくのです。

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