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【どうする家康】光秀が本能寺の変に踏み切った動機は?黒幕はいたの?

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鷹橋 忍

四国政策の転換説

光秀が本能寺の変に踏み切った動機の一つとして、最近よく挙げられるのが、信長の四国政策の転換です。

信長は阿波三好氏と対立しており、同じく阿波三好氏と対立する土佐の長宗我部元親と同盟関係にありました。

この織田と長宗我部の間の、取次(外交交渉役)を務めたのが光秀でした。

信長は当初、長宗我部元親に、四国の領有は元親の「手柄次第」とする約束し、元親もそのつもりで軍事行動を繰り広げていきました。

ところが、阿波三好氏が織田氏に従属すると、信長はその約束を反故にしたのです。

家康、伊賀越えへ

織田と長宗我部は断交となりました。

本能寺の変が勃発する天正10年の5月には、信長の三男・織田信孝を大将とする四国攻めの軍が編制され、出兵が進行していきます。

取次役であった光秀は体面をそこない、四国攻めからも外されました。

この信長の四国政策の転換が、さらなる検討が必要ですが、光秀を本能寺の変へ向わせた要因の一つではないかと、考えられるとされています(柴裕之編著『図説 明智光秀』)。

光秀の謀反の動機は定かではありませんが、本能寺の変は、家康にも「三大危機」の一つに数えられる「伊賀越え」をもたらします。

次週のタイトルは「伊賀を越えろ!」。
家康に、どんな困難が待ち受けているのでしょうか。

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