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【どうする家康】光秀が本能寺の変に踏み切った動機は?黒幕はいたの?

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鷹橋 忍

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

【どうする家康】光秀が本能寺の変に踏み切った動機は?黒幕はいたの?

「どうする家康」第28回より(C)NHK

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【どうする家康】信長(岡田准一)が家康(松本潤)をもてなした献立が記録に残っていた

大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」では、タイトル通り、本能寺の変が描かれました。

酒向芳さん演じる明智光秀の襲撃を受けた、岡田准一さんが演じる織田信長が炎の中へと消えていき、家康にも危機が迫っていましたね。

そこで今回は本能寺の変について、みていきましょう。

明智光秀ではなく、惟任光秀だった

まず、明智光秀ですが、本能寺の変当時の光秀は、正確には惟任(これとう)光秀といいます。

信長に仕えた武士・太田牛一が著した『信長公記』によれば、光秀は天正3年(1575)7月、信長の推挙により、惟任の名字を与えられ、日向守(ひゅうがのかみ)に任じられました。

その後は「惟任日向守」を名乗るようになったといいます。

ですが、明智光秀の名で知られていますので、ここでも、その名で表記します。

さて、本能寺の変とは、ご存じの通り、天正10年(1582)6月2日の未明、当時は京都四条西洞院(京都市中京区)にあった本能寺に宿泊していた信長が、家臣の明智光秀に急襲された事件です。

妙覚寺(京都市中京区)にいた信長の嫡男・織田信忠も、二条御所に移り、明智軍を相手に、自ら太刀を振って善戦するも、自害しています。

光秀が本能寺の変に踏み切った動機は?

光秀を本能寺の変へと駆り立てた理由は、何だったのでしょうか。

これには怨恨説、野望説、黒幕説など諸説があり、古くから議論され、今も続いています。

怨恨説には、「光秀が家康の接待役を務めた際に、饗宴に出した魚が腐っていたため、罷免されたから」、「光秀は母親を人質に渡すことで、丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を開城させたが、信長が八上城の城主である波多野秀治・秀尚の兄弟を処刑したため、怒った八上城の者たちが、光秀の母を磔にして殺害しまったから」、他にも、信長に暴力を振るわれたためなどがあります。

ですが、怨恨説の多くは後世の編纂物に描かれたものであり、検討が必要とされています(日本史史料研究会『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』所収 柴裕之「明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか」)。

また、光秀自身が天下を望んだためという野望説もあります。

本能寺の変に黒幕は存在したのか

怨恨説や野望説の他に、光秀を陰で操る黒幕がいたとする説も登場しています。

黒幕説も、朝廷説、古田新太さんが演じる室町幕府最後の将軍・足利義昭説、ムロツヨシさん演じる秀吉説、徳川家康説の他に、イエズス会説など多数ありますが、今では黒幕説のいずれも、成立しないことが明らかにされたといいます(本多隆成『徳川家康の決断』)。

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