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NHK大河ドラマ「どうする家康」スタート! 家康を感じる場所3スポットとは?

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鷹橋 忍

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

NHK大河ドラマ「どうする家康」スタート! 家康を感じる場所3スポットとは?

写真提供:岡崎市

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家康誕生の城 岡崎城

大河ドラマ『どうする家康』が始まりました。主演の松本潤さんが、どんな徳川家康を演じるのか、楽しみですね。
そこで、ドラマをより楽しめるよう、今回は「徳川家康を感じさせる場所」を三カ所、辿ってみたいと思います。

まずは、家康の生誕の地である「岡崎城」から見ていきましょう。

岡崎城(愛知県岡崎市)

家康の祖父が拠点とした城

写真提供:岡崎市

岡崎城は中世から近世にかけて、愛知県岡崎市にあった城です。

岡崎城のはじまりは、室町時代の享徳元年(1452)~康正元年(1455)頃に、三河国守護・仁木氏の守護代であった西郷頼嗣(稠頼)が、岡崎市の明大寺の地に築いた城です。
城といっても、この頃は砦のようなものだったと考えられています。

その後、家康の祖父である松平清康(1511~1535)が、戦国時代の享禄4年(1531)ごろ、現在の位置に城を移し、拠点としました。
以後、岡崎城と呼ばれるようになったといいます。

家康誕生

家康はこの岡崎城で、天文11年(1542)12月26日に誕生しました。
幼名を「竹千代」といいますが、ここでは混乱を避けるため、家康で統一します。

岡田准一さんが演じる織田信長より8歳、ムロツヨシさんが演じる豊臣秀吉より5歳(諸説あり)ほど年下になります。
父親は松平広忠(ひろただ)、母親は松嶋菜々子さんが演じる於大の方(おだいのかた)です。

家康は、岡崎城ずっと育ったわけではありません。
数え年で6歳のときに藤岡弘さんが演じる織田信秀(信長の父)の、8歳のときに野村萬斎さんが演じる今川義元の人質となったため、他国で少年期を送っています。
家康が岡崎城に戻るのは、次項でご紹介する「桶狭間の合戦」以後のことです。

岡崎市のシンボルに

岡崎城は、明治政府の廃城令により明治6~7年(1873~1874)に、天守をはじめ建物の大部分は取り壊しとなってしまいます。
ですが、1959年(昭和34)に3層5階建ての天守が、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。

城内は現在、歴史資料館となり、各階ごとにテーマを分けた展示物やジオラマシアターなどで、訪れる人々に城の歴史を語りかけています(2023年1月20日(金)まで休館)。

そして、岡崎城の城跡を中心とした「岡崎公園」は、岡崎市のシンボルとなっています。
園内には、家康や山田裕貴さんが演じる本多忠勝などの銅像の他、「三河武士のやかた家康館」や、からくり時計、神社や料亭もあり、桜の名所としても知られています。

写真提供:岡崎市

桶狭間の合戦

ご存じの通り、桶狭間の合戦は、永禄3年(1560)に尾張国(現在の愛知県西半部)知多郡の桶狭間で起きた、織田信長と今川義元の戦いです。

若き信長が2000~3000人の兵で、2万5000名ともいわれる今川の軍勢を破り、義元を討ちとったことで、よく知られています。
有名な合戦ですが、いまだ謎が多く、今川義元が戦死した場所に関しても諸説あります。

今回は愛知県に伝わる、二つの桶狭間古戦をご紹介致しましょう。

国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地

昭和12年(1937)に国の史跡に指定されています。
敷地内には、義元をはじめ7人の今川勢の戦死場所を示すといわれる「七石表」が点在しています。

この他にも、明治9年(1876)に建てられた今川義元の墓と、義元とともに討死した重臣の松井宗信の墓、放置された古戦場を嘆く「桶狭弔古碑」などが見られます。

桶狭間古戦場 伝説地 (愛知県豊明市栄町南舘11)

桶狭間古戦場公園 

こちらも、今川義元最期の地と伝わります。
地元では「田楽坪」と称され、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、織田方の服部小平太と毛利新介の手で、討ち取られたとされます。

合戦から450年後の平成22年(2010)に史跡公園として整備され、園内には織田信長と今川義元の銅像や、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉などがあります。

桶狭間古戦場公園 (愛知県名古屋市緑区桶狭間北3-1001)

この桶狭間の合戦の当時、家康(当時は松平元康)は今川氏傘下の部将で、親戚衆の立場にありました。
桶狭間の合戦にも、今川方として出陣しています。

ですが、今川義元は信長に討たれてしまいました。家康、19歳のときのことです。
今川の敗北と義元の戦死を知った家康は、いったいどうするのでしょうか。

日光東照宮

最後に、日光東照宮のお話をしましょう。

日光東照宮は元和3年(1617年)に創建された、家康を祀る神社です。
家康自身の遺言により、当初は「東照社」として鎮座していました。東照宮と呼ばれるようになるのは、正保2(1645)に宮号を賜ってからです。

なぜ、家康は日光の地に祀られたのでしょうか。

それは、家康自身の遺言だったからです。
家康は死期が近づいたのを悟ると、
「我が遺体は、駿河久能山(静岡市)に納めること」
「一周忌が過ぎたら、下野日光山(栃木県日光市)に小さい堂を勧請すること」
など、自分の死後の対応を遺言しました。

家康が元和2年(1616)4月17日に没すると、遺言に従い、すぐに駿河久能山(静岡市駿河区)に神葬されました。
そして、翌元和3年(1617)、「東照大権現」の神号を与えられた後に、日光で改葬されたのです。

日光東照宮 (栃木県日光市)

日光東照宮を、現在の姿に造り替えたのは誰?

現在、日光東照宮には陽明門、眠り猫など、数多くの国宝および、重要文化財があり、平成11年(1999)に、「日光の社寺」の一つとして、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。

豪華絢爛な美しさを誇る日光東照宮ですが、現在の社殿群のほとんどは、家康の孫にあたる三代将軍・徳川家光によって、寛永13年(1636)に、造り替えられたものです。

家康自身は、社殿を簡素にするように遺言してます。
日光東照宮は家康の望んだ姿とは異なるかもしれませんが、彼の威光を感じられる場所なのではないでしょうか。

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