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【どうする家康】大政所(高畑淳子)の文献に残された姿とは?父親そして2人の夫は

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鷹橋 忍

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

【どうする家康】大政所(高畑淳子)の文献に残された姿とは?父親そして2人の夫は

「どうする家康」第35回より(C)NHK

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【どうする家康】秀吉は、出奔した石川数正(松重豊)を、それほど厚遇しなかったといわれる

大河ドラマ『どうする家康』第35回「欲望の怪物」では、高畑淳子さんが演じる豊臣秀吉の母・仲(大政所、天瑞院)が、岡崎城に送られてきました。

そこで、今回は大政所を取り上げたいと思います。

大政所と呼ばれた女性は、秀吉の母だけではない?

まず大政所とは、「摂政・関白の母」の称号です。

秀吉は天正13年(1585)、関白に就任しており、秀吉の御伽衆・大村由己が著した『天正記』のうちの『関白任官記』(『戦国史料叢書 第一』所収)によれば、秀吉の母にも勅使が立てられ、大政所に任じられたといいます。

ちなみに、和久井映見さんが演じる秀吉の正妻・寧々は「北政所」と称されますが、これは摂政・関白の正妻の尊称です。

ですので、大政所や北政所と呼ばれた人物は、他にも多く存在します。

秀吉の母も正妻も、秀吉が関白を辞任したのちも、それぞれ大政所、北政所と呼ばれ続けました。

北政所は、慶長8年(1603)、高台院という院号を得て、徐々に高台院が定着していきます(河内将芳 『大政所と北政所 ——関白の母や妻の称号は なぜ二人の代名詞になったのか』)。

大政所の父親は?

大政所は、永正14年(1517)生まれとされます。

これが正しければ、秀吉の生年には天文5年(1536)説と天文6年(1537)説があるので、大政所が秀吉を生んだのは、数えで20歳か21歳のときのこととなります。
『太閤素生記』(史籍集覧 第13冊 改定 所収)によれば、大政所は尾張国愛知郡御器所村で生まれたといいます。

父親は、『関白任官記』には、宮中に仕えていた萩中納言とありますが、信憑性は薄いといわれます。

大政所を、美濃の刀鍛冶の娘、愛知郡曾根村の農民の娘などする説もありますが、確かではありません。

夫に先立たれる

大政所は愛知郡中村の弥右衛門と結婚し、智(三好吉房の妻、豊臣秀次らの母)と秀吉の二子を産んだとされます。

弥右衛門の死後、大政所は筑阿弥という人物と再婚します。

筑阿弥との間に産まれたのが、佐藤隆太さんが演じる豊臣秀長と、山田真歩さんが演じる旭だといいますが、四人とも弥右衛門との間に生まれた子だとする説もあります。

筑阿弥にも先立たれると、秀吉に引き取られました。

天正元年(1573)、大貫勇輔さんが演じた浅井長政ら浅井氏が滅び、秀吉が浅井氏の旧領を治めることとなると、秀吉とともに大政所も浅井氏の居城であった小谷山城(滋賀県長浜市)に入りました。

その後、近江長浜城(滋賀県長浜市)を経て、大坂城に移ったといいます(桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』 渡辺良次郎「豊臣秀吉家族事典」)。

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