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【どうする家康】政争に敗れた石川数正(松重豊)。突然の出奔に踏み切った理由は?

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鷹橋 忍

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

【どうする家康】政争に敗れた石川数正(松重豊)。突然の出奔に踏み切った理由は?

「どうする家康」第33回より(C)NHK

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大河ドラマ『どうする家康』第33回「裏切り者」では、松重豊さんが演じる石川数正が出奔しました。

今回は、その石川数正を取り上げたいと思います。

叔父の母は、家康の実母の姉妹

石川氏は、酒井氏と並ぶ松平(徳川)の重臣です。

『寛政重修諸家譜』(江戸幕府により編纂された武家諸家の系譜集)によれば、石川数正の父は石川康正、母は「某氏」とあります。

数正の叔父・石川家成の母は、家康の実母である松嶋菜々子さんが演じる於大の方の姉妹(妙春尼)です。

叔父よりも年上?

数正の生年は未詳ですが、天文2年(1533)生まれともいわれます。

天文2年生まれだとすると、天文11年(1542)生まれの家康より9歳年上となります。

ですが、『寛政重修諸家譜』には、先述の家康の叔父・石川家成が天文3年(1534)生まれと記されており、これに従えば、数正は叔父よりも年上になってしまいます。

叔父より年上の甥もあり得なくはないですが、実際の数正の年齢は、家康と同年か少し上くらいだったのではないかと、みられています。

なお、大森南朋さん演じる酒井忠次は大永7年(1527)生まれで、年上となります。

家康の「股肱の臣」

数正は天文18年(1549)、数えで8歳の家康が、今川氏の駿河国府中(駿府)に滞在することになった際に、家康に随伴した家臣の筆頭として、共に駿府で過ごしたとされます。

本拠の三河国岡崎に戻ってからも、叔父の石川家成とともに、軍事・外交、および内政において、家康を支えていきます。

『寛政重修諸家譜』によれば、三河国の軍事指揮体系は東西に二分されており、東三河は酒井忠次が、西三河は数正の叔父・石川家成が、それぞれ「旗頭」として指揮していたといいます。

ですが、家成は家康の命により、永禄12年(1569)に、掛川城(静岡県掛川市)の「城代」となりました。
城代とは、主君である城主から、城を任され、その守備や管理などする立場の家臣のことです。

家成が掛川城代となると、代わって数正が西三河の旗頭の座につき、西三河衆を統括しました。

康輝に改名

元亀元年(1570)6月ごろ、家康は岡崎城から遠江国の浜松城(静岡県浜松市)へ本拠を移し、岡崎城は、細田佳央太さんが演じた家康の嫡男・松平信康が城主となりました。

その信康と、家康の正妻・有村架純さんが演じた瀬名(築山殿)が、いわゆる「松平信康事件」で、天正7年(1579)に死去してからは、数正が岡崎城の城代を任されています。

正確な時期は不明ですが、天正13年(1585)3月までには、家康から「康」の一字を与えられ、「康輝」と名を改めています(ここでは数正で統一)。

ですが、数正が康輝の名でいた時期は、そう長くはありませんでした。
同年11月13日、秀吉のもとへ出奔。
秀吉から「吉」の一字を拝領して「吉輝」に改名し、秀吉の家臣となるからです。

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